2022年の中2総合学習1・2学期は、「カキナーレ[1]」と称する作文授業を実施。計10回の授業を通じて、ペンネームで自由に作品を発表し、作文に親しみ、「書き慣れる」ことを重視した課題を設けた。生徒を対象に授業評価アンケートをとったので、授業実践の効果を概観してみる。

文章に書き慣れる授業「カキナーレ」

 基本的な授業設計は図の通り。生徒全員の作品がクラスで公開され、他の生徒からコメントが届く。人に読まれることの緊張感と、評価される事の嬉しさが、次回の作品作りのモチベーションに繋がることを目指した。ただし、公開する生徒作品と、他の生徒に対するコメントは、全てペンネームで記名することとした。クラスの誰が書いたのかがわからない発表形式を採用することで、「書く」ことへの抵抗を取り払い、どんなアイデアや意見も文章で表現できる安心感、授業の雰囲気を目指した。
 また、文章表現に関する授業者からの細かな指導は、一部の課題を除き行わなかった。提出された作品の評価は、ただ生徒どうしの相互評価に任せた。授業者の価値観が、生徒の創作を制限することがないようにしたかったからだ。ただし、授業者が「よい」と思った作品は、毎時間の授業で選評し、どのような点で「よい」と思ったのかを講評するに留めた。

作文課題に対する苦手意識

 そもそもこの実践に至ったのは、中3「卒業論文」実践時の問題意識「生徒が『自分の考え』を書けない」に由来する。参考文献をなぞるだけの記述に終始し、自身の意見・考察・オリジナリティが読み取れない生徒論文の例は多い。研究テーマに興味を持ち、様々な文献によって学び、自身の考察が深まってもなお、生徒はそれを言語化できない。このような生徒の「書けなさ」が、カキナーレ(書き慣れ)実践の動機だが、これは生徒の能力の問題というよりはむしろ、作文課題に対する苦手意識に原因があると、予てから考えていた。
 単元の開始直前に行ったアンケートによると、これまでの学校の作文課題が「楽しかったか」を問う五件法設問に対し、「どちらともいえない/そう思わない/全くそう思わない」を選択した生徒は学年全体の60%に上る。さらに、記述設問では、作文課題に対する思いを「苦手だった」「嫌いだった」「好きではなかった」などの言葉で表現した生徒が30%いた。「決められたテーマで感想を書かなければならない」「書く内容を思いつかない」「添削されて、訂正される」「楽しくない」などの生徒記述からは、学校の作文課題に対する「やらされ感」や「戸惑い」が垣間見える。自分の考えを書くという「正解のなさ」がある一方で、授業者が求める「正解の文章」が少なからず存在していること。この状況が、生徒の苦手意識を生み出している可能性はある。そこでまずは、テーマの指示や細かな添削指導等を脇に置き、書くことに親しみ、書き慣れる授業づくりを目指した。生徒が自由に作品を書いて、互いにコメントし合う、作家と読者の両面を併せ持った授業実践である。

「書くことは面白い」という雰囲気づくり

 カキナーレでは異なる6つの作文課題を設けたが、基本となるのは「エッセイ」の創作である。作文のテーマは生徒に委ね、自分が体験した日常の出来事や体験、そこで感じたことをエッセイとして取り上げさせた。以下は授業で示した「カキナーレの基本原則」である。

[ カキナーレの基本原則 ]
1.日常の自分の暮らしの出来事や、体験を取り上げよう
2.人間の強さ弱さ、喜び悲しみなども、ユーモアをもって掬い上げよう
3.あったことの全てを書こうとせず、一部の場面を切り取ろう
4.「事実8割 / フィクション(作り話)2割」で、面白さを演出しよう
5.決め手となる「オチ」をつけよう。これで文章がビシっと決まる
6.必ずペンネームで発表する。遠慮なしに書こう

 生徒には「本当の出来事に作り話を混ぜる」「オチをつける」など、読み手を意識する作品づくりを志向させた。作品公開と相互評価が授業の基本設計である以上、生徒の作品が面白くなければ授業が成り立たないからだ。「自身の体験や、心のうちにテーマを探す」という、エッセイ作文本来の目的がある一方で、読者が楽しめる・面白く読めるための作文技術もまた必要となる。とはいえテーマが自由であれば、作文の技術指導はそれほど必要ではない。授業開始当初から以下のような作品を提出する生徒が少なからずいた。

誤字
/ P.N.一週間で低速Man

最近彼氏に振られてしまった女友達の相談にLINEで乗っていた。別れてしまった理由は、すっぴんと化粧をしている時の顔が違いすぎるからだそうだ。彼女に聞かれた。

「男の人って厚化粧無理なの?」

そんなのいいに決まってるじゃないか、可愛くなろうと努力しているのが可愛いんだよ。そして僕は返事を書いた。

「兵器だよ」
反抗期女子なら共感するかもね😉
/ P.N.みーたろう

最近、父の余計な話が多すぎる。「明日、何時学校行くの?」「7時!」という会話を夜にしたのに、翌朝にも「何時に行くの?」って聞く。直接伝えるのがいいと思って「毎朝7時に出るで。部活に行く時間は予定表に書いてるから覚えて!」って言った。

そしたら「それぐらいしか喋ることないんやもん(´・_・`)じゃあこれからきかんとくね」って言ってきた。父は私とお話ししたいから聞いていたらしい。

その後も少なくなったけど聞いてくることがある。でも、本音を言うことで気持ちも楽になったし、父の想いも聞けた。この話「わかるー」と思った人、お父さんとお話してみたら?

 異性とのエピソードを面白おかしく表現し、「誤字」とタイトルづけた生徒は、オチの秀逸さやタイトルのアイデア、恰好良いことを言おうとして滑る滑稽な男子生徒像に、他の生徒からの評価が集まった。一方で父親とのエピソードを、自身の等身大の想いと共に表現した生徒は、他の女生徒からの共感を集め、思春期女子と父親の機微が現れている点が評価された。
 どのような作品を「よい」と思うかは、生徒に委ねた。自然とクラス内の「よい」作品には評価が集まった。評価された生徒にとっては、自分が工夫して書いた作品にコメントがつく嬉しい機会となる。他の生徒にとっては、「よい」と思った生徒作品を読んで参考にする学びの機会となる。作品作りと相互評価を繰り返すうちに、生徒は楽しさと上達を得る。新しい課題の度に「よい」作品が増え、作品のテーマも多様になっていった。カキナーレの授業設計は、クラス全体に「書くことは面白い」「なんでも書いてよい」「評価されることが嬉しい」という雰囲気を醸成していったようである。

授業評価アンケートの分析: 生徒は「カキナーレ」で「書き慣れ」たのか

 勤務校の中学総合学習の達成目標の一つに、研究論文の執筆に堪えうる「論理的な文章技術の体得」がある。今回の中2総合は、その前段階の目標として、作文課題に対する苦手意識を払拭し「書き慣れる」ことに重点を置いた。このため、アンケート調査における「書き慣れ」の指標としては、書くことの「楽しさ」を問うこととした。学校の作文課題に対し苦手意識を感じていた生徒たちが、カキナーレの課題を楽しく書けたのであれば、「書き慣れる」という目標はひとまず達成したことになる。

分析①:「作文が楽しい」生徒の増加

 学校の作文課題を「楽しい」と感じるか、5件法選択式で問うた。カキナーレ実施の前後で同じ質問を問い、それぞれの結果を比較した(グラフ1)。ネガティブな回答「どちらともいえない/そう思わない/全くそう思わない」を選択した生徒は、授業実施前では学年全体の78%に上る。これが、授業実施後の同じ設問では22%へと減少した。また、生徒の回答を個別に概観しても、授業実施後の回答は概ね1段階、ポジティブ寄りの回答に移行した。このグラフからだけでも、授業は作文課題の苦手意識払拭に対して、ある程度の効果があったことが伺える。

 さらに(グラフ2)が示すように、「カキナーレを通じて作文が上達したと思うか」を問う設問でも、自己評価とはいえ65%の生徒が、授業によって作文が上達したと回答している。授業者からの細かな指示や添削指導をほとんど行っていないにもかかわらず、生徒同士の相互評価のみによって高い自己評価を得られたこともまた、彼らの「書き慣れ」を示すデータといえる。

分析②:授業を後輩に勧めるか

 学習経験を客観的に評価する設問として、「カキナーレのような授業を後輩に勧めるか」を設けた(グラフ3)。先に示した授業の「楽しさ」への回答は、作文が好き・嫌い・得意・苦手など、生徒自身の状況によって変化する。一方で、第三者である後輩に推奨するかを考える場合、授業に対する評価はある程度の客観性を持つ。74%の生徒が「とてもそう思う/そう思う」とポジティブな回答を示し、次項で示す自由記述回答からは、ペンネームでの作品公開と相互評価の楽しさが、結果として「書き慣れ」に繋がったという実感を、生徒自身も持っていたことがわかった。一方で「どちらともいえない」には、「自身は楽しく書いたが、作文が苦手な人が多いので勧められない」などが回答理由として挙がった。やはりこのデータにも「作文課題は(一般的に)面白くない」という認識が、他者に勧めるか否かに影響していることがわかった。

③授業を「勧める」「勧めない」理由

 授業を後輩に勧める・勧めない理由を、自由記述式で問うた。先に②で示した「ポジティブ/ネガティブ」の観点で回答を2分し、さらにそれぞれの記述内容を10項目に類型化して回答を分析した(グラフ4)。ポジティブな回答として最も多かったのは「楽しさ」「作文技術」である。「楽しさ」に言及した記述は86件あり、苦手意識の強い作文課題に対し、6割近い生徒から全体的な肯定感が得られた。「作文技術」に言及したコメントも同様に86件。カキナーレ実施により、少なくとも生徒の自己評価としては、作文技術向上の実感が得られていたことがわかる。
 次点には「相互評価」に言及する記述が48件集まった。「ペンネームだからなんでも書けた」「自分へのコメントを探してしまう」「人の文章のテクニックが参考になる」「自分と違う意見を知れたり、共感できる作品がある」などがあった。さらに「テーマ探し」に言及する記述が41件集まった。「カキナーレのネタを探して生活を振り返るようになった」「身近なテーマで文章を考えるのが楽しい」「体験や感想を想いのままに書けた」「自分の行動を改めて考えるのが楽しい」などがあった。
 一方、後輩に勧めない理由として「自分は楽しかったが、書くのが苦手な人は多く、苦痛になると思う」「作文が好きではない人が多いから」「個人的には楽しいが、他の人にはあまり勧められない」などが述べられた。ここでも「みんなは作文課題が苦手だろう」という、生徒間における一般的な認識が影響していることがわかった。

④他の生徒作品をどのように評価したのか

 生徒がどのような観点で、他の生徒作品を評価していたのかも調査した(グラフ5)。「文章表現の秀逸さ」「共感」といった選択肢に回答が集中し、「カキナーレの基本原則」とも対応する。授業で生徒に示した基本原則は、「自由に書いてよい」という制約のなさを与える一方、生徒作品が面白くなるための仕掛けも盛り込まれている。何気ない日常を「テーマ」で切り取り、多少のフィクションも織り交ぜながら面白い作品に仕上げる手法は、生徒にも受け入れられた。その様な手法で書かれた作品が、生徒自身の思う「よさ」とも合致し、相互評価に影響を与えたようである。
 このグラフからは、「誰が書いたかわかっている作品」という観点が、相互評価で重視されなかったことも示された。ペンネームでの発表とはいえ、授業を開始した当初は「内輪ネタ」的な作文もいくらか見受けられた。しかし、仲の良い者どうしが互いにそれとなく、自分たちだけにわかるネタで盛り上がる光景は、回を重ねるごとに減っていった。生徒自身の思う作品の「よさ」が評価されるうちに、内輪ネタのような作品が淘汰されていったようだ。

分析まとめ①:作文課題の制約からの解放

 アンケート結果からは、苦手意識が強い作文課題に対して「楽しさ」を感じる生徒が増加したことがわかった。加えて、授業者が作文指導をほとんど行なっていないにも関わらず、生徒同士の相互評価のみで、作文の上達が実感されていた。さらに自由記述回答の分析などから、生徒がカキナーレのどのような点を評価しているのかもわかった。自由なテーマで作品を書き、ペンネームで相互評価を繰り返すという授業設計が、彼らが感じていた作文の「楽しさ」に繋がっていた。これらの結果から、作文課題における苦手意識の払拭・表現する楽しさの発見に着目した場合、「カキナーレ」は一定の効果があったといえる。
 最後に、授業実践「カキナーレ」が生徒の「書き慣れ」を促した要因について、筆者なりの仮説を示して本稿を終える。背景にあるのは「作文課題の制約からの解放」とまとめられる。制約は二つあり、一つは「クラスの人間関係」、もう一つは「課題設計の矛盾」である。

「クラスの人間関係」をリセットした「ペンネーム」という仕掛け

 通常、生徒は「クラスの人間関係」という文脈に依存し、普段の表現活動(ここでは作文課題だけでなく日常会話なども含める)を行う。自身のクラス内での立ち位置や、他者からどう見られているかといった文脈は、生徒の表現活動に強い影響を与える。こういったクラス内における他者の存在は、エッセイ作文のような個人的文章作成においては、よい作品が生まれる重要なテーマでありながらも、一方では自由な作文を阻害する足枷にもなる。本来であれば自身の内面を深掘りし、考えて表現する作文のような活動は、他者の目を気にするような人間関係に縛られていては良いものにならない。
 これに対して今回の授業で採用した「ペンネーム」は、日常の人間関係をいったんリセットし、自由に作文することの足枷外す役割があった。生徒からはペンネームでの相互評価に対して「相手によらず、純粋に『文章のよしあし』で作品を評価できるところがよかった」「顔も本名もわからない作者のファンになり、毎回の授業の作品公開でつい探してしまう」などの感想も挙がった。ペンネームによりクラスの人間関係からも解放された自由さが、彼らの作品づくりを後押ししたと考えられる。

「自由に書け。だが、授業者が求める文章を書け」という、課題設計の矛盾

 作文課題における「課題設計の矛盾」もまた、生徒の表現活動に強い影響を与えていたと考えられる。「他の授業では先生に言われたこと書くが、カキナーレはざっくりしたテーマだけ先生から伝えられ、自分の大事なテーマを考えて文章を作れる」「他教科と比べて自由に考え、書くことができる」などが自由記述では挙がった。また規定文字数や、記述内容の限定に関して言及する生徒もいた。一般的に、学校における作文課題には、自分の考えを書くという「正解のなさ」がある一方で、授業者が求める「正解の文章」や「課題としての制約」が少なからず存在し、これが生徒の苦手意識を生み出していた可能性がある。「自分でテーマを考える」「添削はしない」というカキナーレの授業設計が、生徒を作文課題の制約からも解放したと考えられる。
 もちろん文章指導においては、いずれ制約のある文章を書くべき時が来る。論理的に文章を構成する技術は当然、習得すべきであるし、状況に応じて求められる書式を守る必要もある。とはいえそのような制約が初めから作文課題の全てでなされたのでは、生徒は委縮するのだろう。「書き慣れる」という本授業の目的から考えても、まずは可能な限りで作文の自由さを保障し、また評価に際してもその自由さとの間に矛盾が生じないよう、課題設計を行う必要がある。

分析まとめ②:自らを俯瞰し、安心して表現する空間をつくる

 生徒の作品に触れる中で特に実感したのは、「書く事を通じて自らを俯瞰する生徒が増えていった」ことと、「俯瞰して見えた新たな自己像を文章に表現し、それを安心して公開できる空間がクラスに形成されていった」ことである。書くという行為には「自分の中を探る」という性質が伴う。とりわけエッセイ作文ではそれが顕著で、作品中で自らの言動・行動を俯瞰するような表現を用いる生徒が少なくなかった。さらにそのような表現は、他の生徒にも「共感できる」と受け入れられ、評価を集めた。
 中学2年という発達段階において、自身の思いや行動に悩み、それらをうまく言語化できずに日々を過ごす生徒が多いだろうことは、容易に想像できる。「カキナーレ」はそのような発達段階にある生徒にとって、ある種のカウンセリングの機会になっていた可能性がある。「書く」ことを通じて、自らをカウンセリングする。さらに、互いに作品を「読む」ことで共感するようなエピソードに出会い、カウンセリングされる。言葉にできない自らの思いが、自身の創作や他者の創作を通じて言語化されていく経験といえる。生徒どうしの作品へのコメントでしばしば多用された、「めっちゃわかる」「すごい共感する」「自分もこれが言いたかった」などの言葉が、その可能性を示唆する。互いにそのような言葉が出る空間は、まさに「安心して表現できる空間」と呼べる。作品を通じて互いにカウンセリングをしあう過程を通じて、本音で何でも書ける空間が形成されていったのだろう。

今後の課題

 ここまで見てきたように「カキナーレ」は生徒の書き慣れに一定の効果があったといえるが、課題も残る。第一に、本名では本音を書けないという、生徒自身の息苦しさが表出したことだ。ペンネームによる相互評価という授業設計であれば、彼らなりの本音の文章が書けた。逆説的に捉えるならば、本名で公開するような一般的な作文課題においては、自らの考えを深められず、当たり障りのない文章に終始する可能性を示す。ペンネームならよい文章が書けて、本名では書けないという状態があれば、人前で本音を表現しづらいという息苦しさが、生徒の日常を覆っていることになる。表現活動が多く求められる学校生活において、そのような状況があることは、何らかの形で対策を考える必要があるだろう。
 第二に、多くの生徒が書き慣れを実感したとはいえ、依然として作文課題にネガティブな反応を示す生徒が10名ほどいたことである。授業に対する彼らのコメントを精査すると、「昔から作文が苦手だった」「自分の文章を出すのが恥ずかしかった」など、自己評価の低さが目立つ。これら生徒は、一度も他者からコメントをもらえなかった生徒がほとんどであった。さらに「良いものを書こうとして課題提出に間に合わなかった」などのコメントもあり、未提出課題や未完成課題も目立った。ペンネームとはいえ、作品が公開され人から判断されるという状況は、このような生徒にプレッシャーを与えていた可能性がある。相互評価はまさに、選評という土俵に自らが立つことであり、時にプライドが傷つくこともある。「恥ずかしい」「良いものを書いて評価されたい」という自意識を持つ彼らにとっては、はじめの一歩として、授業者からの全幅の評価機会が必要だったのかもしれない。
 繰り返すが、本実践の目的は「カキナーレ」の名の通り、生徒が作文に対する苦手意識を払拭し、書き慣れる」ことを目指したものだった。添削をしなかったことからも、作文技術の向上は問うていない。これに関しては、この後に中2生が挑戦する「卒業論文」での指導にその機会を譲る。とはいえ、「自らテーマ考え、それを臆せず書いて表現する」というステップを、カキナーレを通じて彼らが踏んだことは間違いない。彼らが卒業論文執筆においても、作品作りを通じて得た経験を、存分に発揮することを期待して、本稿を終える。

授業づくりで参考にした文献等

 授業実践のほとんどの部分は深谷による実践「カキナーレ」を参考にした。授業担当者であるyamazaki自身が、学生時代に深谷に師事したことが、本授業実践の最も大きなきっかけとなった。「カキナーレ」の詳細が報告された書籍として、2022年現在も入手が容易なものに、『カキナーレ:若者の本音ノートを読む』(東方出版)がある。
 勤務校で実施される中3卒論での「書けなさ」、その解決策としての作文授業の必要性に気が付いたきっかけとして、牲川・細川『わたしを語ることばを求めて:表現する希望』(三省堂)がある。細川による高校生への授業「日本語表現総合」を牲川が取材し、克明にまとめた実践報告である。高校生が「わたし」を問い、「わたし」を表現することばを獲得していく過程が描かれている。

おまけ:2022年度 中2総合学習「カキナーレ」授業内容

 課題タイトル課題の詳細
No.1日乗 (春休み課題)永井荷風『断腸亭日乗』にちなんだ、テーマ自由のエッセイ作文。
No.2悪魔の辞典 (授業1コマ)アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』にちなんだ、ブラックユーモアで世の中を俯瞰する辞書パロディ。学校現場における不条理・負の側面などに着目。批判的かつユーモアを交えた説明文を目指した。
No.3いろは歌辞典 (授業1コマ)くじで引いた「ひらがな一文字」を頭文字とする言葉を選び、ユーモアを交えて説明する辞書パロディ。ブラックユーモア、洒落、諷刺、皮肉、比喩、暗喩、あるあるネタなどを駆使して表現する説明文。
No.4日常を「テーマ」で切り取る (授業1コマ)テーマ自由のエッセイ作文。日常の出来事を切り取って「テーマ」を見出し、その時の状況や自らの想いを俯瞰することを目的とした。
No.5接続詞でパロディ小説を作る (授業2コマ)夏目漱石や太宰治など、著名な近代文学のパロディを創作。「小説の書き出し」に対し、くじで引いた「接続詞」を繋げ、後の展開を二人ペアで考えた。接続詞が文の流れを変え、論理展開に影響を与えることの気づきを目指した。
No.6中学2年生が訴える (授業2コマ)要望、意見、怒り、悲しみ、喜び、好き嫌いなど「私が世の中に本気で訴えたいこと」を題材に選び、論理的文章で表現することを目指した。この課題から「常体文で書く」「根拠の提示」「規定文字数」など書式にも言及した。
No.7課題文を読んで意見する (夏休み課題A)興味がある課題文を選んで読み、自由に意見する小論文。 ・上野千鶴子(2002)『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社 ・村上春樹/河合隼雄(1996)『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』新潮社 ・為末大(@daijapan)2022年3月18日のTwitter投稿「全国大会廃止の是非」 ・大平健(1995)『やさしさの精神病理』岩波書店
No.8日常を「テーマ」で切り取る (夏休み課題B)テーマ自由のエッセイ作文。日常の出来事を切り取って「テーマ」を見出し、その時の状況や自らの想いを俯瞰することを目的とした。
No.9ノンフィクションの書評を書く (授業2コマ)「感想文」から「批評」へのステップアップを目指した。選んだ本がどのような点でよいのか、どのような層を対象に勧めたいのか、などを中心に、相手に説明する文章を目指した。本の選定は、以降の授業「卒業論文」の題材選びと対応させ、自分が何に興味を持っているのかも考えさせた。
No.10卒業論文の「おわりに」を書く (授業3コマ)カキナーレ最後の課題は、卒業論文への接続として、論文原稿の「おわりに」を書いた。研究成果を報告する論文では、「私的な文章」を排する必要がある。しかし論文中で唯一、私的な文章を表現できるのが「おわりに」である。なぜその研究テーマを選んだのか。自身にとって、なぜそのテーマが重要なのか。研究テーマと自らの関係性を問うことは、自らの内面を掘り下げ、1年間本当に取り組むことができるテーマを検討することに繋がった。

[1] 元ネタはyamazakiが大学在学中に受けた講義「文章表現学」に由来。担当講師だった深谷純一氏は元高校授業者で「カキナーレ」と称する自由創作エッセイの授業実績を買われ、授業者志望者向けの講義を担当していた。今回の実践でも、授業設計の多くの場面で深谷氏の「カキナーレ」を参考にした。関連書は『カキナーレ:若者の本音ノートを読む』(東方出版)など。当時4回生のyamazakiは教員志望ではなく、教職課程すら履修していなかったが、「なんか面白そう」と思い至り深谷氏の講義を履修。学生として「カキナーレ」に参加し、ペンネーム「4.5回生」(当時半期留年していたことに由来)の名でエッセイを書いていた。

 授業を通じて、深谷氏に目をつけられたのが人生の転機となった。毎日新聞の連載コラムを書いたり、国語科教員志望でもないのに教材研究会に参加したり。紆余曲折を経て、深谷氏より「アンタは教員にでもなりなさいよ」との指令を賜る。それから10云年。ついに自分が「カキナーレ」の授業を学校で実践しているのだから、人生とは本当にわからないものである。