同僚が所属している関西英語授業研究会からの登壇依頼。僕は英語科じゃないけど。というかその同僚も社会科所属だけど。まぁ、とにかく、所属教科はどうでもいいらしい。「探究学習のことならテーマなんでもOKなので是非」と言われたので、自分の思考整理も兼ねて、ここ数年の間に考えていた、「探究学習×『暇と退屈の倫理学』」をテーマにした。
試論 暇と退屈の教育学:中高生の探究学習におけるテーマの決まらなさの検討
「興味がある分野を探究しよう」という授業を作った時。課題の一つになるのは「俺、なんも興味あるものがないんです」と切実に語る生徒の存在。彼らとの対話は、かなりカウンセリングに近い様相を呈する。
ふつうにテーマが決まる生徒たち相手でも、研究支援やレファレンスはしばしばカウンセリング的になっていく。しかし、こと「テーマが決まらない生徒」については、もっと根の深い問題を抱えているように見える。
僕はこの状況を、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』に準え、「暇と退屈の教育学」と形容している。

カリキュラムの固まった学校教育の中で、テーマ自由の探究学習は「暇」に位置付けられる。1限から6限まで、教員の指導と課題でいっぱいいっぱいの教科学習がある一方、探究学習は自分で学習内容を決め、自分で主体的に進めていくからだ。
その「暇」を一部の生徒は「退屈」してしまう。これは一体何なのか。 好きな事がない。やりたい事もない。腹が立つ事もない。もちろん社会課題の意識もない。テーマどころか分野も決まらない。

資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。
そして暇を得た。
だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。
何が楽しいのか分からない。
自分の好きなことが何なのかが分からない。
(國分,2011,p.23)
何年もこの授業をやってるが、統計を取ると1割の生徒は最後まで分野すら決まらない。さらに何割かの生徒は興味のない分野を選ぶか、消費的な「好き」から抜け出せず、分析らしい学習にはならない。 授業をあの手この手で工夫したが、どのような学力帯の年度も状況は変わらない。これはなんなのか。

國分は「消費と浪費」「暇と退屈」概念を分けて考えた。消費社会の要請による「消費」ではなく、自ら地に足をつけ、楽しみや生を享受する「浪費」こそが、暇を退屈せずに生きる術だと。 これに習えば、自らテーマを決め、自由に学ぶ探究学習は、この「浪費」を生徒が経験する機会だと言える。


探究学習は「自由に学べ」と、「暇」な時間を生徒に投げる。授業が「君は何を学ぶのか。なぜ学ぶのか。どのように学ぶのか」と問う。その過程で、いい本や取材相手に出会ったり、いい調査ができたり。生徒は自らが意図しなかった知識経験を得る。そうした出会いが、テーマへの関心をさらに深めていく。研究がだんだんと自分のものになっていく。

この手の探究学習では、たしかに「何にも興味がない」生徒の存在が課題になる。 しかし授業の実態は、生徒が初めから興味ある分野を選ぶというよりもむしろ、探究の過程で興味が見つかる、深まるという方が正確だ。 そういう意味では、何にも興味がない生徒のための授業だとすら思えてくる。
自分の動機に基づき学習の一歩を踏み出す。読書を始める。フィールドに出てみる。その中で「浪費」の対象を見つける。時間をかけて、明らかにしたい疑問、取り組みたい調査、解決したい課題が立ち現れる。つまり、学習のイニシアチブを生徒が握る。
教員の役割は、そうした学習に対する支援者だ。学習者集団の雰囲気づくりを仕掛け、ここの生徒の研究過程に個別に対応する。そして、テーマがどう転んでも対応できる体制を整えるのが学校図書館の役割となる。


現代社会を論じた『暇と退屈』に対し、教育では「学習者がイニシアチブを握る機会がない」構造も背景にあると思う。 テーマを決められない生徒はむしろ「テーマを決める機会を与えられなかった」と言う方が正しい。 彼らの語りは、学校で、家庭で、自ら選び学ぶ機会を奪われてきたことを示唆する。


関西英語授業研究会 第10回南大阪支部
(2023.12.09)
Twitterでかなり反響あったので追記(2024.08.10)
登壇のことを久しぶりに思い出したので、資料をざっくりまとめてTwitterに投稿してみた。なんと178万ものインプレッションがあり、やっぱり『暇と退屈の倫理学』は広い射程を持った本なんだなぁと納得。
しかもこのツイートがきっかけで、新潮文庫の新版でなく、僕が紹介した太田出版の版がAmazonで在庫切れしてしまったらしい。國分先生もツイートしていて驚いた。8月7日の梅田ジュンク堂イベントでもご本人と編集の方からお礼を言われた。こんなことあるんだなぁ。嬉しいけど、SNS怖い。
反響があったTwitterの反応には、学校教員アカウントだけでなく、子育て中の保護者から社会人教育の方まで、幅広い方面からの意見があった。「自分自身が暇を退屈してしまっている」という悩みを持つ方からの反応も多い。みんな、暇退を読もう!
昨年12月の登壇では言及しなかったが、僕の感想も書くなら、子どもを育てる側(学校、家庭、社会)もまた、能力主義トレンドを追う「消費」的教育ではなく、「浪費」的教育を目指したいなぁという想いがある。むかしに読んだ文化人類学の本に「子育ては最高の暇つぶし」と捉える人々が紹介されてた。教育という「暇」を、我々大人はどう「浪費」できるのだろうか。