新任の頃にお世話になった、大阪大学「探究学習指導者セミナー」が、10年の節目を迎えた。取りまとめてこられた佐藤浩章先生の退職に伴い、来年度以降の実施は未定とのこと。寂しい思いがあるが、元受講生を対象にセミナーへの登壇依頼が来ていたので参加した。
自由に学ぶ探究学習は、能動態的に「進める」ものでなく、中動態的に「進んでいく」ものなのではないか。今回は、そんなテーマでの実践報告となった。 矢野勇樹/佐伯胖ほか『子どもの遊びを考える:「いいことおもいついた!」から見えてくること』、國分功一郎『中動態の世界:意志と責任の考古学』を参考に、さいきん自分が考えていることを言葉にしてみる。

探究学習で「いいこと思いつきました!」と生徒が言う瞬間が数多くある。例えば、テーマが「降ってくる」時。いい本と「出合う」時。 これは「主体的」とか「能動的」という言葉よりも、むしろ「中動態的」と呼ぶべき状態ではないか。 主体性や能動性概念では問うことができない、中動態的瞬間。9年も探究学習に関わっていると、その表現の方が、生徒の探究過程の実態を表しているようでしっくりくる。

だが、生徒の「中動態的」瞬間が数多くある一方で、授業者はしばしば、探究を能動的に進めるよう求める。一律の指導に慣れた教員にとってそれは自然なことだろう。人員も時間数も限られている中での授業で、いつまでも中動態的瞬間を待つのは難しい。
しかし生徒の学習過程を見ると、やはりいい探究とは自ずと「進んでいく」状態に近い。 調査、考察、表現を段階的に進めるのでなく、各局面を行ったり来たりする。研究テーマも、研究の方法も、研究の進捗も、生徒により異なる学習過程が探究学習だからだ。

授業者は授業を一律の課程で捉え、そこに学習活動を当て嵌め進める。しかし探究学習は、授業「課程」よりもむしろ、個々の生徒の学習「過程」に応じ進んでいく。 悩んでいた生徒が突然いい論文を書く。順調な生徒が迷走する。その状況が当たり前。「学習過程」は「授業課程」のように、簡単な整理を許さないのだ。

テーマ設定を例に挙げる。 テーマは「決める/絞る」等と表現される。しかし本校生徒の様子を見ていると、当該テーマによほどの当事者性や問題意識等がない限り、最初に決めたテーマで、最後までやり通す者はそうそう居ない。 テーマとはむしろ、分野題材について多くを学ぶうちに「立ち上がる」ものだと言っていい。

テーマとは生徒が能動的に考えるものではない。もちろん教員から受動的に与えられるものでもない。興味があることを学ぶうちに、中動態的に「立ち上がる」のだ。この瞬間、生徒は「あ、ええこと思いつきました!」と表現する。学習に没頭しなければこの言葉は出ない。もちろん授業者による言語化の支援は必要だが、自分であーでもない、こーでもないと悩むからこそ「ええこと」が立ち上がるのだ。
探究の方法も例に挙げる。 授業課程の都合上、授業者は探究の方法を帰納的アプローチに嵌める。しかし高等教育とは異なり、専門の学部教育を経ない中・高の探究で、初手から帰納的方法を採用しても、つまらない&勉強不足な研究になる。ただ予定調和のテーマで、必要最低限の情報をなぞって終わるだけだからだ。そうではなくむしろ、 多様な文献に学び演繹的に知識を広げた先に、生徒自身が大切と思う題材と出合うようにしたい。

重要なのは、授業者も生徒も「無駄な勉強」を恐れないことと、それを許容する授業設計と体制作りだ。無駄と思える勉強の中にこそ、中動態的な感覚がある。重要な文献との出合いがあり、生涯忘れ得ぬ専門家への取材があり、自分の手でつかみ取ったデータがある。そうする中で、大事なテーマが立ち上がる。
このような中動態的感覚を扱う授業づくりは、生徒が「いいこと思いつく」仕掛けづくりだと形容できる。読書機会の保障、学校図書館の充実、司書によるレファレンス、フィールドワークのサポート、教員や他の生徒からのフィードバック。そして、行ったり来たりできる長期的な学習期間…。こうした仕掛けづくりのためには、個々の授業者による授業づくりの工夫だけでなく、やはりカリキュラムマネジメントの視点が必要になるだろう。一律に進める授業「課程」の構築ではなく、多様に進む学習「過程」への支援が大人の仕事なのだ。

こうした、生徒が「いいこと思いつく」仕掛けが、授業課程ではなく学習過程を充実させる。いい文献や取材相手に巡り合い、授業者や他の生徒と語り合う中で、中動態的に「進んでいく」。授業担当者は支援者として、生徒の興味関心から目を離さず、何にも興味がない生徒や、課題感の強い生徒とも対話しつつ、探究が深まるのを見守りたい。

大阪大学高大連携フォーラム(2024.08.09)