正月休み最終日に『どうすればよかったか?』を十三の第七藝術劇場で観た。「問い」はそのまま、重度の介護・障害家族を複数抱える、僕自身の家族に対する問いとなる。障害の認知、親の老い、重なる介護、合理的判断のできなさ、散らかった家。全て見覚えのある光景だった。

はたして「どうすればよかったか」。観る人の多くは、統合失調症の姉が通院・服薬し始めて以降の、穏やかな家族の姿に答えを見出すだろうか。もっと早くに診断や投薬すべきだったと。親が子を縛るべきではなかったと。実際そうなのかもしれないし、今となっては色んな可能性を論じられる。 しかし、父親が最後に語った「失敗だったとは思わない」(うろ覚え)という言葉が、僕自身の経験と重ねても、当事者の言葉として最も重く、実感あるものとして響いた。 この「失敗」という言葉は、治療や介護ではなく、「家族の在り方」としての意味だと捉えた。容易に首肯することはできないが。
藤野知明監督のように、介護現場において、物事を合理的に、それでも対話しつつ進められる人がいる。 でも、そのような合理性が、当事者家族との対話の間ではむしろ阻まれることがままある。介護を実際に長く担う人に通用しない言葉がある。両親と監督の間の対話は、僕自身の色んな経験を思い出させた。
おそらく父親も監督も、そして母親も姉も、映像には説明されない想いと、ままならなさを抱えていたはずだ。障害への偏見、古い精神医療への恐れ、本来求めていた幸せな家族像、諦めや「正常」な判断ができなくなる感じ。 介護や障害、或いはそれ以外の様々な「機能不全」と形容される家族の中で生きる人には、おそらく理解できる。
その上で「どうすればよかったか」。監督はパンフレットで「統合失調症の対応としては失敗例」と語る。そうかもしれない。 でも、ままならない他者と共に生きる、我々の生としてはどうか。そのように「在る」しかなかったのではないか。家族の死によって物事が安定し進み始めた今の僕は、そんな別の問いを考える。