この頃、授業や図書館見学に来られる方や、オンライン配信のリスナーの方から「心理的安全性をどう確保されてますか?」という質問を受けることが多くなった。どうにも探究学習というか、学校教育のなかでこの「心理的安全性」というのが流行っているらしい。

 いや、そもそも心理的安全性ってなんなのよ、という話なのだけど、僕はK先生と一緒に授業をしてきたので、Carl.Rogersの心理的安全性のことだと当然のように思っていた。K先生が1980年代から実践してきた探究学習、子どもが自ら興味を学ぶような実践は、そもそもロジャースの「来談者中心」に源流1がある。クライエントの自己成長の力を信じ、自分自身で問題解決できるよう支援する心理療法のように、子どもの学習も捉えようというわけだ。子どもを学習の中心に据えて、彼らが学びたいことを大人が支援するというスタイル。

 個人の在り方と成長(や、その他)を尊重すれば自ずと教室の心理的安全性は確保される。誰でも自分の興味をテーマに探究できる空間は、異なる他者を容易に受け容れることができる。みんなそれぞれ大切にしていることが違うのが目に見えるからだ。文科省のいう総合的な探究の時間の、「自己の在り方・生き方」とも対応している。

 ところが、どうにも質問者の「心理的安全性」と、こちらが思う心理的安全性の話が噛み合わない。で、調べてみると、いま教育界でトレンドの「心理的安全性」はEdmondsonのそれだとやっと気がつく。ようは組織づくりが主題で、探究というか協働。経営学で流行ってる言葉を教育にもに取り入れたというありがちな話。流通してる図書の多くも、先のRogersに言及するものはほぼない。教育関係でも。

 単純な話、世の中の探究学習の主流が、「グループでSDGsのことを研究してアイデアプランを考えましょう」なのだから、昨今の教育関連本に登場する心理的安全性も当然ながらEdmondsonのいう話になってくる。実に学校的と言えば学校的だ。みんなで、協力して何かする。その際のグループ内の心理的安全性が問われている。

 両者を比較すれば表のようになる。重視するのが、自己の在り方生き方といったRogers的な「来談者(子ども)中心」の学習なのか。Edmondson的な協働学習のパフォーマンス向上なのか。授業者自身の教育観と授業設計、心理的安全性の焦点がリンクしそうだ。

 ためしに、公共図書館で「心理的安全性」の名のつく教育関係の文献をあさってみた。2020年頃からの図書は見事にEdmondsonにしか言及していない。産業界で「心理的安全性」がバズワードになりはじめたのがその少し前なので、そうした世のブームが教育界にも流れ込んできたと考えるのが妥当だろう。この手の「流行りに乗っかる」教育界の体質の是非はともかく、かつてからあるRogersに言及しないのもどうかと思うし、もっといえば心理的安全性が探究学習において議論の焦点になるなら、そもそも安全性が問われる授業設計自体に難があるのでは? とも思ったりする。

 授業する立場としては、せっかく生徒が「自己の在り方・生き方」を考える時間なのに、生徒グループ内の前向きに取り組めない絶妙な空気や、生徒間のいざこざ(フリーライダーやテーマの折衷など)の仲裁が探究学習担当教員の仕事になるというのもおかしな話だ。学習支援する司書の立場としても、そんな絶妙な空気のチームにレファレンスしても大して資料が当たらないことはよくわかる。書架で本を手渡したときの「誰が読む?」「お前が読めよ~」というあの感じ。テーマに興味も無い。なかなか難しい。

 うちの授業の生徒たちが心理的安全性を確保しているように傍からみえるのは、けっきょくはテーマが自由で、個人で研究しているからに尽きるのだろう。自分が大事にしているテーマを扱うのだから生徒は真剣に本を読む。こちらのスタンスが指導・評価というよりも学習支援なので、なんでも相談にくる。個々が「私の研究」を抱える学習者集団だから、互いに承認し合える。だってRogersの「心理的安全性」ってそういうものだから。その意味で、興味関心×個人研究は大変そうにみえて、実際にはとても楽ちんだ。心理的安全が確保されていると、生徒は勝手に探究をすすめていくからだ。対極にある社会課題×探究学習と比べても、教員は生徒の学習支援に専念できる。

 Rogers的な、生徒個人の在り方に基づく心理的安全性と授業設計が先に立つのであって、個々の生徒の学習経験が充実するばいい学習者集団が自ずと形成される。その中でEdmondson的な、協働の心理的安全性も自ずと生まれる。それぞれ違うプロジェクトに、それぞれの価値観で取り組んでいるからこそ、互いに承認や相談が生まれる。