中高生の探究学習を支援してると、「当事者性のあるテーマ1」を選ぶ生徒がそこそこいることに気が付く。授業では「興味関心があることをテーマに選ぼう」「面白く本が読めるテーマを選ぼう」と口酸っぱく生徒に伝えているので、「好き」「たのしい」の気持ちから中高生らしいテーマを選ぶ生徒も多いが、一方でこの「当事者性のあるテーマ」も代表格。たとえば過去の例からは以下のようなものが挙げられる。
・家庭(きょうだい児、介護、ギャンブル…)
・対人関係(他者評価、部活の指導…)
・コンプレックス(性格、見た目、学力…)
・部活指導(教員との関係、先輩後輩との関係)
・依存(ゲーム、ネット、課金…)
ほかにもたくさんあるが、とにかくこうしたテーマが毎年現れては、先にも示した「好きだから研究テーマにする!」という選び方とは一味違う学習経験になっていく。生徒は自分自身の悩みやしんどさに、研究活動を通じてそれなりに向き合っているように思える。
生徒への学習支援は、参考文献の相談、面談、論文の添削まで様々なんだけど、これらの過程には、当事者的なテーマを選んだ生徒らの変容がよく見える。僕が手渡した文献を「ちょっと私が考えてることとは違うんです」と突き返してきたり、あるいは「自分が言いたいことを書いてくれてる、ぴったりの本が見つかった」と喜んでたり。フィールドワーク取材でお世話になった大学の先生の話に救われただとか、論文の結論に自分の言いたいことを上手く表せず、面談を繰り返す中で言葉にできたとか…。
流行り言葉でいえば、生徒は研究経験を通じて、自分が抱えていたモヤモヤの「言語化」に、少なからず成功していたようにみえる。これは意図せずの結果なんだけど、「自分が興味を持っていることを学習テーマにすること」「図書館の本を参考文献に学ぶこと」「論文にまとめること」という授業設計は、当事者としての生徒自身の悩みやしんどさを、研究対象として客観視するきっかけになっていたのだと思う。
こうした生徒の様子をこれまではぼんやり眺めていただけなのだけど、竹端寛(2025)『福祉は誰のため?』筑摩書房 に、あぁそういうことかという記述があったので紹介。同著は全体を通じて「自己責任」というワードに何度も言及するが2、第2章「なぜ人は追い込まれていくの?」では政治哲学者、玉手慎太郎の「後ろ向き責任・前向き責任」3を引用しながら次のように書いている。
確かに依存症という結果への責任はあるかもしれないけど、それを他者が否定や非難をしたところで、何も現状が変わらないのであれば、その否定や非難は無効である、ともいえます。
この時に私たちが慣れ親しんだ因果モデルを脇に置き(中略)非難や否定という「評価」枠組みも横に置き、「苦しいこと」を抱えたその人が、いま・ここに至るプロセスを、知らない私があなたに教わる。そのつもりで聞いてみる(中略)自分の失敗や苦境の歴史について、他者が誠実に・関心を持って聞いてくれるなら、話してみる価値はあります。そして、他者に話すことによって、そのプロセスを「離して見る」こともできます。そのような「物語の共有」は、やがて固着した自己責任を開くことも可能になります。
竹端は玉手を引用しながら、依存症など自己の内に困難を抱えた人の語りについて、自己責任に基づく「後ろ向き責任」を問うのではなく、ただ他者に「話す」(或いは「聴く」)プロセスと、そうした物語りの共有から生まれる「前向き責任」に言及する。このプロセスが、当事者性のある探究学習のテーマ設定とすごく似ている気がするのだ。
生徒は自分の悩みやしんどさの問題を内面化し、しばしば自分自身に「後ろ向き責任」を問う。そうした状況は、研究のはじめに書く「動機レポート」によく現れる。「自分がコンプレックスを抱えているのは○○ができないからだ」「もっと努力して○○のような能力を身につけなければ」「人と話せないのはコミュ力が低いからだ」といった、ある種の能力主義的な価値観(=後ろ向き責任)が、彼ら自身の内に責任追及的な自己を作り出す。研究の開始直後は、そんな自分をどうにかするためのHow-Toとして、読書や研究活動を行いはじめる。
だが、世の中の本は案外やさしい。悩む生徒に「お前はこうすべきだった」「もっとこうあれ」「努力が足りない」と求めるよりも、彼らの悩みやしんどさを要素分解し、その仕組みを説明してくれる。彼らが置かれている状況と、その背景を分析する視座を提供して、生徒が自分の力で「前向き責任」へと向かうヒントを提示する。こんなふうに、生徒は読書という行為や、悩みを研究し論文を書くプロセスを通じて、自己の内に内面化された「後ろ向き責任」を解きほぐしていったようにみえる。

加えて、探究学習を担当する教員の学習支援も、ある種のカウンセリングとして機能していたのかもしれない。授業課程に応じ研究にまつわる各種の技術指導を進めるとはいえ、結局は個々の生徒の学習過程に応じて、彼らの話を「聴く」ことしかしないからだ。目の前の生徒に「どんなテーマに興味があるの?」「それをどう研究していきたいの?」「なぜそのテーマが大事なの?」と問い続けることがすなわち、彼らの当事者的な悩みを「聴く」こととイコールの関係だったように思えるのだ。
とある年度に「コンプレックスが成長に与える影響とはなにか」を研究した中学3年生は、論文の「おわりに」で次のように振り返っている。
初めはこのテーマを扱うことに躊躇した。先生から心理学の分野は書くのが難しいと言われていたからだ。だが初めての卒業論文、分野のどこまでも広く深掘りして勉強しなければならないということで、自分が一番真剣に取り組めるものにしたいと思いこのテーマを選んだ。
このテーマを思いついたのは、受験勉強をしていた時のことを思い出したからだ。勉強が難しすぎて、何もかもが嫌になっていた時に、勉強もできるし、ずっと楽しそうにしている同級生を見て羨ましいと思った。それと同時に自分に対する嫌悪感を抱いた。そのとき今まで得意だった、当たり前だった「勉強」がなんとなく嫌いになり始めた。
少しの間勉強から離れたら、毎日が楽しかった。逃げたからこそ今の自分があると分かっているが、あの時諦めずに自分と向き合っていたらどうなっているのだろうとこの機会を機に深く考えてみようと思った。そして私と同じようなことで悩んでいた人たち、悩んでいる人たちが、少しでも何かを変えるきっかけになれば良いと思う。
この論文を進めていく上でモチベーションの維持が一番難しかった。先生に言われていた通り心理学は「形」がなく、取り扱いにくかったからである。この分野について理解することに時間がかかった。言ってしまえば、「コンプレックス」について完璧に理解できたかと問われれば、答えは「できていない」だ。しかしそんな中で書き終えたこの論文に私は自信がある。書き終えた今、私は吹っ切れられたからだ。このテーマでこの論文を書き終えられてよかったと思う。この論文が誰かの吹っ切れるきっかけになってくれればと思う。
「いま考えてるテーマがあって…」と図書館に来た、生徒の話を聴く放課後。「ずっと悩んでるんですけど、上手く言葉にできなくて」と言う彼らの語りを手助けする過程。そして、論文の構成や結論づけを横に座ってサポートするとき。確かに生徒の内には、「後ろ向き責任」から「前向き責任」への転換があるような気がする。それは授業担当としての思い上がりなのかもしれないし、「そうだったらいいな」というささやかな願いに過ぎないのかもしれない。でも、上記の生徒の「おわりに」にあるように、そこにはそのテーマを選んだ生徒自身の選択があり、探究を通じて自己の在り方・生き方4を考えた生徒の在りようが、やっぱり現れているように思える。
たかだが週に1回の「総合的な学習(探究)の時間」、しかも教員から「やれ」と言われて学ぶ探究学習で、なぜこうした当事者性のあるテーマ選びが出て来るのか。しかも、クラスメイトや学年の他の生徒の目線を憚らずそれなりの数が出て来るのはなぜか、ということについても別の機会に考えてみたい。
- ここでいう「当事者性」とは、「何らかの『悩み』『しんどさ』をテーマに選んだ生徒自身が、直接的・間接的にそれを抱えていること」程度で扱っている。世の「当事者研究」議論については、「べてるの家」などが有名なので興味ある方はそちらをぜひ ↩︎
- ほかに社会学者、岸政彦の「他者の合理性」も。責任の問い直しは現代的なテーマなのだろう ↩︎
- 玉手慎太郎(2022)『公衆衛生の倫理学:国家は健康にどこまで介入すべきか』筑摩書房
後ろ向き責任が「過去の特定の行為から生じた損失の補償を、当人が個人的に引き受けることを要請する規範」であり、前向き責任が「当人の置かれた状況に応じて、将来ある特定の行為を遂行することを望ましいものとみなす規範」と定義 ↩︎ - 文部科学省「【総合的な探究の時間編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説」 ↩︎