自分の興味を学んだ先で人と繋がる
山﨑:前回の探究大全で、生徒が書いた論文の「おわりに」の話があったじゃないですか。本を読む中で文献の著者と出会った、研究テーマと出合った、取材先で専門家と出会った、自分の論文を読む読者と出会った、それが自分にとって大事な経験だったと、彼が振り返っていたという。僕はあの話を生徒から聞いたときに、個人で興味があることを学ぶからこそ生まれる、他者との関係性だったんだろうなと思ったんですね。それが彼にとっては、さっき片岡先生がおっしゃったような、「人生において忘れえぬ経験」になったんやろうと。
生徒が興味あることを、しかも個人で学ぶなんて、「協働的じゃないから探究学習じゃない」「ただの調べ学習だ」とか、まあいろんな意見があるんですけど。でも、探究学習の豊かさっていうのは多分、誰かが書いた本とか、誰かが先に拓いてくれた世界に自分も飛び込んで、しかも自分で何かをやってみた時に誰かが反応してくれる、変化が生まれる、みたいなことやったんかなって。そういう意味では、個人で興味があることを学ぶということの方が実はむしろ、社会に開かれてるっていうか。教員が無理くり社会課題と繋ぐよりも。
片岡:学ぶっていう行為は、学校教育では一般的に“功利的”なものだよね。先生は「あなたのために」、生徒は「自分の成績・将来のために」だからね。そういった功利性は、どんな学びにも当然ついてくる。でも、探究学習みたいに、自分の興味に発して、誰かに向けてなにか論文にして書き残してあげるとか、社会の問題を学ぶとか、そんな相互性のある学びの実現の機会は、お題目は別として、学校教育の中にはまああまり無いよね。
山﨑:なんか流行り言葉で言ったら、「オーセンティック(ラーニング)1」みたいな。手応えというか。
片岡:おお、ムツカシイ言葉をまたおっしゃる…。つまりふだんの学習は生徒にとって、オーセンティック(本物)ではないと。
山﨑:頑張って勉強して点や偏差値が上がったっていう手応えも当然あるんだろうけど、何やろうな。何か外部の「客観性」という物差しで測るっていうこと以上に、探究学習ってのは自分自身の手のひらで掴んだ実感を持つ学習なんかなって思うんです。まあそういう意味でこれは「豊かな学び」なのかなと。
片岡:たしかに実感のある学びで得た知識は、定期テストや入試が終わると抜けていくようなものではないよね。学んだ知識は脳細胞のシナプスにしっかり組み込まれた、「文脈のある豊かな学び」なんじゃないかな。…脳みそ見たわけじゃないけど。
「偏差値」でも「私らしさ」でもない学習経験
山﨑:十年前、僕が新任でこの学校に来て、片岡先生と仕事はじめた時の話なんですけどね。その頃にこの授業に対して感じていた勘違いがあったんです。「これまでの学校教育は、教員(や、学習指導要領)が決めた内容をチョーク&トークで学ぶわけだから『受動的な学び』だ」と。これに対して「自分がやってる探究学習は、自らが興味を持ったことを学ぶという点で『能動的な学び』なんだ」みたいな。そんなふうに対置して捉えていたんです。「アクティブ・ラーニング」がまことしやかに、色んな言説で広まっていった頃でした。
片岡:ふーん。
山﨑:今はそうは思えないんです。前に読んだ本2の内容を援用するなら、その頃僕が授業に感じていた「受動的・能動的」という対置は、「統計学的な教育観」「個人主義的な教育観」と捉えることもできるなと。たとえば同じ学習内容を学び、同じ選抜試験を受けさせて、客観的に能力を測定するという学校教育。その先にあるのは、「君は模試がこの点数で、偏差値これぐらいね」「じゃあ大学はこのくらいだね。生涯年収はこれくらいだね」みたいな。統計的可能性、というか「リスク」が示されて、煽られて、それで学習する。それは「統計学的な教育観」に基づいた教育かもな、と。

片岡:たしかに偏差値は統計だよね。偏差値で大学選ぶのも。「統計的にこの偏差値の大学に行けば君はいい人生が送れる可能性が高い」っていうよね。
山﨑:そうそう。一方でその、僕らの探究学習ってのは、もっと「自分探し」や「私らしさ」みたいなのに近いと、新任の時には思ってたんですね。「私は好きなことで生きて行く」みたいな、YouTubeのコピーみたいですけど。それってある種、「個人主義的な授業観」やったんですよね。あなたの人生はあなたのものだから、あなたらしく学びなさいみたいな。実際、そういう、「自分探しやらせてどうすんの」「もっと社会にコミットしなきゃ」みたいな批判もあったわけです。
片岡:そういうイヤごと言われたこと、何度もあったよね。
山﨑:でも実はそう単純でもなくて。何年かこの授業に関わるうちに、「これまでの授業 vs これからの授業」「能動的 vs 受動的」「統計学的な教育観 vs 個人主義的な教育観」みたいな、単純な二項対立ではないなって考えるようになって。先に挙げた本にもあるんですが、統計学的と個人主義的というのは、対立する概念ではなくむしろ手を取り合って互いを確固たるものに成立させていると。
つまり、「個人には測ることのできる能力があり、教育によってその能力を伸ばすことで、統計的リスクを回避できる」みたいな。まさに、個人主義と統計がタッグを組んできたわけです。そういう意味では、片岡先生と一緒にやっている探究学習の授業に対して僕が抱いていた、「個人主義的な教育観」というのは、勘違いやったんかも、と。
片岡:個人個人言うても、一人で生きてるわけじゃないからね。確かに「個人内の絶対評価」や「個人内の相対評価」をこの授業では大事にしているような気がする。たとえば論文のデキはいろいろでも、「俺はやり抜いたぜ、俺はやったぜ!」という達成感はとても大事。でも、「個人間の絶対評価」だってあるし、「個人間の相対評価」も当然あるよね。「受理」の判断とか、個人間の絶対・相対評価だもんね。成績も統計的にやってるよね。まあ、ここまでの話なら、そういわれれば、統計的・個人的にタッグを組んで功利的に学んでいるねえ。
山﨑:その観点で言えば、テーマが決まらない生徒に対して「将来もっと、色んなシーンで自己選択の機会があるけど、君はどうすんのん? 結婚とか就職とかさ」と言うのも、「自分で規定して人生を歩む能力」を功利的に身に着けさせてる、とも言えるかもしれません(笑)。
世の中の他者と繋がる「関係論的な教育観」
山﨑:で、何年か生徒を観察する中で気付いたのが、今回の「おわりに」原稿で生徒が振り返っていた、「他者との関係性構築」という経験やったんです。自分が興味あることを学ぶという、一見して自己完結的な行為がむしろ、世界に関与し、他者と繋がって、また新しい自分の発見に繋がるという。これを先の本から援用するなら、「関係論的な教育観」と言えるんです。
片岡:まあ、そりゃ教育に「他者との関係」があるのは決まってるよね。学校はその関係性がめちゃ固定して閉鎖的だけど。
山﨑:偏差値に基づくリスクヘッジで生徒を煽る「統計学的な教育観」でも、自分探し・私らしさを追及する「個人主義的な教育観」でもなくて。探究学習の中で、興味がある本と出合ったり、著者と出会ったり、自分の論文の読者と出会ったり、同じことに興味がある他の生徒と出会ったり…みたいな。学びの中で、世の中の誰かと繋がっていくような関係性みたいなものが、実はこの授業の一番大事な特徴なんじゃないかって、なんかずいぶん前からずっと考えてるんですよね。

片岡:うん。「統計」も「個人」も「関係」もみんなあるのが普通。こうした議論があるのは、目の前の教育がどこかバランス欠いている、という問題意識からだろうね。僕もバランス欠いてると思うよ。
山﨑:ほかの先生からもよく聞くんですけど、「自分の好きなことやってるだけやん」とか、「興味があることを学んで何か意味あるん?」「もっと協働学習やグループワークをやって、将来誰とでも働ける能力を身に着けた方がええやん」「自分探ししても仕方ないやん」「図書館で読書とかただの調べ学習やん」みたいな批判がある。
片岡:あるある。
山﨑:でも一方で、実は自分たちがやりたい授業ってのは、別に自分探しではなくて。あの、自分の井戸を掘った先に、実はほかの人の井戸と繋がったとかね。井戸を掘った先にどこかに着いちゃって、そこにいた人と仲良くなっちゃった、みたいな。なんかそういう、自己完結的ではありながらも、実はすごく社会や他者に開かれた学習やから面白いんかな、て思ったんです。
片岡:興味に導かれて個人で黙々やっているように見えて、実は世の中に繋がってたみたいな? 本との出会いもリアルな人との出会いもあるから。なにか掘り下げて個人で完結、なんてことはまずないよ。で、そうこうしてるうちに「おや、自分が見つかっちゃった」ていう。
ふりかえって、一般的な教室の授業は、皆が同じ内容の授業を受けて、同じテストで同じ知識を吐き出してるよね。これこそ個人と統計の中で完結するような学び。そうではなくて、学びたいことを普通に読書して学んで、「(著者の)あなたに会いたいです」「ほなこっちお上がり~」。これじゃ落語だけど、実際に会える。その上で、研究発表会で「こんな面白いことあるんだよねー。みんな聞いて~」って。で、その話を聞いて、他の人が「面白いなあ、いいなあ」って感じて、「そうでしょ、面白いでしょ~」みたいなやりとりがあるものだよね。まあ、「探究学習でござい」と言ってるけど、そういう「普通なこと」を学校のシステムを使って試みてるだけ。別に特殊なことではないね。
人の数だけ面白い世界が扉を開けてる
山﨑:8年前から、論文書くだけじゃなくて、最後に卒業論文の研究発表会をやろうってなったじゃないですか。それぞれが興味を学んだ成果を発表するけれど、見に行く方も自分が興味あるものを参観するという。あの発表会って、やってみたら意外とみんなすごく楽しそうにしてて。他人が興味を持ってることには別に興味なんかない、関係ないって思うのかなと思いきや、そうでもなかった。自分と関係あるテーマはもちろん、関係ないテーマも面白がれるというか。お互いがこう、1年間自分の興味を一生懸命に学んだからこそ、相手の興味や研究も肯定できるっていう。リスペクトがあって。
片岡:そりゃそうだよね。「同じ学校の中にもいろんな人がおるな」とわかるだけで、文字通り視野が広がる。人の数、テーマの数だけ面白い世界が扉を開けてる。
山﨑:そこがすごくええなって思ったんですよね。普段は「俺は偏差値なんぼ」「お前はGTZなんぼ」とか。そんなことをずっとやってるわけじゃないですか。そういう教育観、学習観の中で、しかも生徒が興味を持ってることを学ぶなんて意味あるの? みたいな空気の中で、でも実は、フタ開けてみたら結構みんな一生懸命で、しかもリスペクトもあって、というか。
片岡:Aさんがこんなことをやって、Bさんがこんなこと、Cさんが…って、もう人間みんな自由にそれぞれ道を歩んで行くに決まってる。それぞれ「大事だな」と思うことが違ってて、それぞれ「面白いよね」って共感を得るのは…当然すぎて。もうなんか言うのもアホらしいというか。
いまテーマにしてる「探究学習の豊かさ」っていうのは、人柄の豊かさにつながるんですよ。社会人になって世の中に出るときに「あなた一体何なん? どんな人?」って、すぐ聞かれる。「いや、こんなことが面白くて、こんなことやってきたんすよ」なんてやりとりをしながら生きて行く。普通はね。履歴書や志望理由書だってそういうものだよね。
「君は何を大事だと思うか」をずっと生徒に問いたい
山﨑:そうなんですよね。別に面接じゃなくても、例えば自分の人生を振り返ったときに、色んな経験や出来事や自分の選択を何かしら文脈付けたり、ストーリーとして解釈したりするわけですよね。人間って。そうやって、そのひと固有の人生の線が引かれていくわけで。でも、やっぱそれをね。偏差値の次は…なんだろ、資格とか。TOEICが、SPIがどうとか。勤め先は上場一部企業です、婚約相手のスペックはこんなです、みたいな。そういうなんてのかな。あの、ありがちな外からの物差しでずっと自分の人生測っちゃうわけですよね。
片岡:わかりやすいからね。客観的で公平に見えるし。でも「TOEICが何点です!」なんて能力を誇ると、「で、その能力で何したいの?」と返す刀で問われるんだよね。まともな間柄ならそうなる。ハイスペックをPCみたいに誇るのはいいけど、その重装備であんた一体どこ行くの、と。
山﨑:そうなんです。そうこうしてるうちに、「いやこれじゃダメだ」みたいになって、今度は「私らしさ」みたいな話で、みんな悩んだりする。「私らしい人生って何だったんだろう」みたいな。こんだけスペックとかなんとかで鎧や武器を持って…。
片岡:なんか聞いてて、それ悩むの遅すぎるような気がするよね。学校がそうした機会を用意してないのもあるけど、とにかくスペックのためにやるべきことばかり多くて、ひとつ超えると次のステップが用意されてて。その次のステップも…みたいな。それでは学生は本当にかわいそう。
山﨑:そうやって誰かから用意されてきた「ステップ」ばかり登ってたと思ったら、最後には何に登ればいいのかがわからなくなっちゃったりしてね。何のために生きてんのか、頑張ってんのか。楽しいことも、大切に思ってることもよくわからなくなる。休日の過ごし方すら自分で決められなくなる。そうなると何もできなくなっちゃう。だから僕は、何を面白いと思うか、大事だと思うかを、ずっと生徒自身に問いたいんですけど。でもそういう問いって、学校教育の先生の多くが、ちょっとどうでもいいと思ってませんかって。僕なんかは、そういう状況にあるように感じてしまっている。
片岡:もしくは「面白いかどうかが大事だ」とたとえ先生方が思っていても、学校という組織としては目の前の、統計学的な人間観みたいなものを優先せざるを得ない。“立場”としてね。もちろん保護者もそれを強く求めてくるし。優先順位が低いのかな。低すぎて見えなくなってる。
探究学習でしばしば起こる「自己開示」
南:今日はある生徒と2人で喋ったんですけど。やっぱりなんか、「わかるよ」とか、「それ面白いね」って、こう面と向かって誰かに言ってもらえるのって大きいよねって思って。たとえば結構な生徒が「コンプレックス」みたいなことを研究テーマに選ぶんですけど、もちろん最初は当事者として研究を始めればいいけど、最後には一般化して客観的にみれるといいね、みたいな話をしてたんです。他には「取材した大学の先生はこんなふうに言ってくれた」とか、「私はこう思うよ」って話もしたんですけど。なんか、そんな話を大人と1対1でする時間って、やっぱりあんまりないのかなと思ったりして。おうちの人がそういうタイプじゃなかったら特に…。
山﨑:たしかに、大人とのそういうやりとりに飢えてますよね。「ほんまの話」みたいな。
片岡:放課後に教室や廊下で座り込んでおしゃべりとかできんもんね。先生も。
南:そういう生徒に対して、「うちの子は気難しい」と考えてる親も多いんだけど、気難しいというよりは、生徒はよく考えようとしているっていうかね。親にはそういう面を見せないのかもしれないし。
山﨑:まぁ自分の親が…そういう話ができないってなった時の絶望感って結構あって。「もうダメだ」ってなるんですよね。「多分もう分かり合えなさそう。もうアカンっぽいわ」みたいな。その、喋っている言葉そのものが違うようなことになったときに、その場は諦めざるを得ないんですよね。そういう諦めの状況をどういなすかっていう。いやまぁ、ほんとはそんなこと別に悩まなくていいと思うけど。
南:そういうことが大事な時ってあったりするね。
山﨑:どの親もが「ほんまの話」を子どもとできるかというと、そんなことないかもしれない。親の考えてる世界の言葉と、自分の世界の言葉がズレてると、中々自己開示する機会がないですよね。
南:そういう時に学校で喋ると、そうやって自己開示になってさ。
「先生になんか自分の本当にやりたいことを生徒は言わないでしょ」という意見
山﨑:そうそうそう。あの、小説書いてる生徒とかいるじゃないですか。「なに書いてんの?」って聞いたら、ちょっと恥ずかしそうに、なんとかってアプリで、毎週なんかに投稿してて、これくらいの数の人に読まれてて…みたいな。
南:すごいよね。
山﨑:はずかしそうなんだけど、やっぱりちょっと、人に言いたくなっちゃうみたいな。「そんな感じで書いてるんだ」って返してね。「じゃあどんな物語がウケてるの?」って。そういうのが、研究テーマになったりする。
南:「あなたが書いてる物語は何がウケてるの」って聞いて、考えさせてみると、彼自身が思いもよらなかったところにハートマークがついてるって返ってきて。ああそうなの、みたいな。
山﨑:そうね、だから、そういう自己開示もまあ、多分、南先生相手とか、取材した大学の先生相手にひとつできた、みたいな話だと思うんです。普通の教科でやらないじゃないですか。そんな自己開示。
片岡:いや、そんなことできない。無闇と緊張した人間関係の中でリスク高いでしょ。
山﨑:たとえば倫理の授業で、「今日は哲学対話しましょう」みたいな時にポロっと出たりするかもしれないですけど。
片岡:自己開示がスクールカーストの地位を脅かすとか考えないかな。
山﨑:あーそれはそうかも。そういえば、前にウチの授業に対してTwitterで反応くれた人が、「研究テーマを自分で選ぶからって、学校の先生になんか、生徒は自分の本当にやりたいことを言わないでしょ」みたいなご指摘を頂いて。なるほど、世の中的な反応としてそういうのもあるんやなって思って。でも、うちの場合は割とそこらへんは、なんかクリアなんかなって思ったりして。
片岡:そりゃ、つまんなそうしてると「さっさとやめろ」「テーマ変えたら」っていわれるから、ホントの興味に向かわざるをえない。
南:そうそう 笑
片岡:結局興味あるテーマに行きつくようにできている。谷の水が海に向かって流れるみたいに。クラスメイトを見てもまあ、なんかそれなりに赤裸々な題材を選んでたりするし。授業を担当している大人も、図書館の先生も、あれこれちょっと違う角度からものを言うし。
南;そうそう、そうなんですよね。
片岡:図書館でやる「オープンダイアログ3」だと思う。つまり、いろんなことを好き勝手に言われる。その中でポロッと、生徒自身が自分で気が付く瞬間がある、みたいな。生徒の横で話を聞いてて、ちょっとしたり顔でアドバイスする友だちもいたりするんだよね。
山﨑:そういえば、これも他校の先生に言われたんですけど、「オタクの授業は、本っていうものを仲介にして、生徒が先生に自己開示できてるんじゃないか」みたいな。そういうことをおっしゃる人がいたんですね。僕らは本棚に並んで立つわけですよね、生徒と一緒に。それって、面と向かって「お前何やりたいんだ」ってやるよりも、本棚っていう場所や、誰かが書いた図書を仲介にして、こうちょっと喋りやすくなるみたいな。そういうことを言ってくれる人もいた。赤提灯的なんですよね。大事なことは面と向かって言わないっていう。横に並んで、鍋やおでんをつつきながらの方が大事なことは言いやすい。
南:そうそう。本棚だとね。授業中でも、確かにこうやって、本とパソコンを目の前にして、生徒と教員が二人で座ってますね。パソコン見てるからお互いあんまり目を合わせなくていいっていうか。
山﨑:でも、たぶん普通の…なんやろ。「お前何やりたいんだ」を問われる人生の節目って、多分進路指導とか、会社の面接とか。全部面と向かってなんですよね。「お前何?」「何ができるわけ」「何がしたいわけ」みたいな。で、指導や面接をする側と、受ける側に介在するのは、大学名とか、エントリーシートとか、そんなもんで。
探究学習支援者の「役得」
片岡:そういう意味でもきっと、探究学習で出会う図書の著者や、支援する大人との出会いは「豊かさ」なんだろうなと思う。だから、文化資本的にというか、恵まれてんだ。ブルデューだっけ?
山﨑:そうです。『ディスタンクシオン』。とはいえ、そのような文化資本の観点から言ってウチの生徒が恵まれているって言っても、学校教育全体で言えば、やろうと思えばやれるわけじゃないですか。なんか難しい事考えなくてもね。図書館に蔵書と、人がいれば。
南:まあ授業の枠もあったほうがいいと思う。
山﨑:まあそうなんですけど。でもそれも、たかだか1単位の授業が、生徒自身の興味を学ぶ探究学習に充てられないんですか? って、ちょっと思うんです。他の色んな教育政策と比較すれば、それほど予算をかけなくても、図書館も司書もおける。それに、図書館も司書も既に充実してるウチの学校でも…高校の探究学習はそうはなってないわけで。生徒の興味を学ばせる体制にないですよね。
片岡:いやそれはね、そういうのをやっぱ学校教育って慎重に避けてきたんだと思う。
山﨑:なんでです?
片岡:勝手されたら困るから。
山﨑:誰に?
片岡:生徒に。子どもはコントロール下に置きたいっていう、明治以来、国と学校・教師が超長いこと作り上げてきた仕組みや慣習がそうさせてる。イニシアティブは常に教える側が持っていたい。
山﨑:なるほどね。
片岡:モノ作りも、問題解決も、自分の目の届く中でやってね、全部自分で考えるなんて、そんな怖いことやってくれるなって。そんなめちゃくちゃするわけないのに。
山﨑:まあそうですよね…。そうじゃないと、あんなに授業課程を重視して、何もかもを細かく刻んで決めてしまわない。何でも教員の手のひらの上でやろうとしている感じがするんですよね。
片岡:とはいうものの、こんなに豊かで楽しい探究学習しないなんてホントもったいない。生徒の学ぶ多様性の豊かさ、そして教師側の支援者の側の経験の楽しさ豊かさ。大変だけどその醍醐味。それらをみなどこかに置いてきちゃってる。学校図書館が冷遇されてきた根っこは探究学習を許容できない学校教育の体質にありそうだよね。それはそうと、ほんとに豊かで楽しいから、イヤごとにもめげずに、僕ら教員の側も長続きするんですよ。
山﨑:僕なんか学年に所属してないし、今は免許を所持する教科の授業も持ってないんですけど。でも多分、学年に入って、教科を教えて、部活も持ってる先生には、見えない生徒像というか…。さっきの自己開示の話ですけど、それがすごく見えてるんだろうなって思うんです。
南:そうだよね。
片岡:役得だろうな。
山﨑:そうそう、ホンマ役得やなと思います。
片岡:探究学習の楽しさ豊かさって普通じゃない? と、いつもここに話は戻ってくる。「教育=学校教育」ってみんな考える。でも、教育の中でも学校教育が特異なんだろうなと。対象はだれでもいいんだけど、とにかく「よく生きようとする子どもを助ける働きかけ4」を教育と考えたなら、教育はそれこそ普遍にどこにでも豊かに楽しく広がる世界だと思う。それなのに、教える者、教わる者、カリキュラム、達成目標が前もって決められて、同じ年齢の子たちが同じ教室で、時間単位で学習する、こうした方法だけが教育と考えるのは、そろそろ考え直した方がいいと思うよ。うちの探究学習はそこからちょこっとはみでているだけだけど、それでこんなに豊かなんだから。
初出:「探究学習の豊かさ」(よもやま話2)『探究大全』
(2024年11月18日)
- 「本物」の教材や題材で学習を設計すること。生徒には当事者として参加することも求められる ↩︎
- 磯野真穂(2022)『他者と生きる』。人の人間観を「統計学的人間観」「個人主義的人間観」「関係論的人間観」の三種に分けて説明した ↩︎
- 「開かれた対話」の意味で、治療者と患者だけでなく、本人・家族なども交えて「対話」を行い、症状緩和を目指す心理療法。日本では斎藤環らが提唱している。本校でも、研究テーマが見つからない、興味があるものが無い、といった生徒を対象に、司書・教諭・生徒本人・生徒の友人なども交えて、同治療法を参考にした「対話」を行っている。 ↩︎
- 村井実は教育の定義を「子ども<よく>しようとするあらゆる働きかけ」としている。子どもたちはみな<よく>生きようとしているのだから、大人は子どもたちのその働きを助けようとする。大人のこの活動はすべて教育と呼ばれる。村井実(1976)『教育学入門』等を参照されたい。 ↩︎